こんにちは
突然ですが、今、あなたに大切な人はいますか?
いるとしたら、大切なその人と連絡はとっていますか?
もしも、しばらく連絡をとっていないなら、しばらくぶりでほんのちょっぴり勇気がいるかもしれませんが
「久しぶり、元気?」と、連絡してみませんか?
何故なら、大切な人と会いたい時に会えなくなっているかもしれないからです。
ただ、仕事でどこかに出張しているとか引っ越ししていたとかならば、日程を変えれば会うことはできるでしょう。
でも、この世界から旅立っていかれていた場合は、もう二度と会うことはできません。
今の私達が知っている姿で、声で、何一つ答えてはもらえないのです。
そして、いつか黄泉の世界へ旅立つことができるとしても、その人の生きていた時の所業によって、人それぞれ行く場所が違いますから同じ場所へは行けません。
つまり、本当に、もう二度とその人と逢うことはかなわないのです。
しかし、ただ一つだけ例外があり、この体から抜けた時に逢える人が【一人だけ】いるそうです。
それは、死した自分をお迎えに来てくれる人になるのですが、だいたい今世で家族であった人と言われています。
「便りがないのは元気の証拠」。。一昔前は、そんな言葉がありました。
だけれども実際には、そんな「便りがないのは元気の証拠」なんてことはないのです。
ふと、「そういえば、あの方は、お元気でおられるだろうか?」なんて思い、思い切って連絡してみようかと調べてみたら、すでに鬼籍に入られていた・・なんてこともあるのです。
これはつい先日、実際に私が非常に後悔した体験に基づく話です。
前職時代に大変お世話になっていた方が、まだお若かったのに昨年、他界されてました。
地元の新聞ではお悔やみ欄があるので、ひょっとしたら掲載されていたかもしれませんが、私は新聞をとっていないため全く知りませんでした。
前職ももちろん退いているため、このような連絡をもらうこともありません。
しかもその当時は、合気道の初段審査前の総仕上げ稽古にも夢中で、構築中の志事と通常の仕事に時間も氣持ちも集中していた時で、全く周りに氣をとめる余裕もありませんでした。
私が随分お世話になったその方は、普段、色んな役職を兼務されており、とてもお忙しい方でした。
そんな中でも、私が退職のご挨拶に伺った時には、快く時間を割いて会ってくださいました。
「近くまで来たら、ちょこちょこ顔出しにおいで。なんか困ったことがあったら、遠慮なく来なさいよ。」と、優しく声をかけてくださるような方でした。
私は、多忙を極めている方にご迷惑はかけられないと思い、ご無沙汰ばかりしていました。
自分の足で立ち上がり、お金を稼げるようになったら、ご挨拶に行こうと思い、日々、勉強し一歩一歩、前へ進んでいた矢先でした。
・・知らなかったとはいえ、ご存命の間に全く何もできなかったことに対し、非常に後悔したのです。
そもそも目標半ばでありながらも、勇気を出して連絡してみようと思い立ったのには一つの理由がありました。
それは、先々週末、数年ぶりに前職時代の友人に会い、それぞれの近況報告などしていた時でした。
友人にその当時の先輩から連絡が来たという流れから、一挙に当時の話に花が咲きました。
その中で、以前私が引き継ぎをした女性が、今年の4月、いきなり担当部署を変わらされたと聞いたのです。
しかも変更ギリギリまで全く何も聞かされておらず、かなり動揺していた様子だったそうです。
元上司の相変わらずの所業に呆れましたが、そこから仕事内容の話になり、私が担当した仕事の一つで「ロータリークラブ」という団体の話題になりました。
その団体に在籍している方々は、経営者がほとんどです。
そんな方々が会員であるクラブの仕事に携わることで、仕事内容だけに限らず、人間関係など、いろいろ学ばせていただきました。
かなり、私自身、「精神的成長」をさせていただいた大事な仕事でした。
お世話になったその方は、その団体の中で、ひときわ影から日向から私を一人前の担当に成長させてくださった方でした。
いきなりの担当者変更ともなると、クラブ内では慌ただしくなりますし波風が立つものです。
今更ながら、一線を退いてはいるものの、お世話になった方がクラブの会長をしている年でもあったため、氣がかりになり勇気を出して連絡してみようと思い立ったのです。
本当に世は無常ですね。
五年前に私が退職する時は、とてもお元氣だったのに・・まったくもって病とは歯がゆいものです。
病によって、みるみるうちに体が侵され、この世界からあっという間に旅立ってしまわれたそうです。
私が今回、このなんとも心が痛む体験から学んだことは「今、この瞬間を大切に生きる」ということです。
細かく言うと一時間、一分前でも過去ですよね。どんなに望んだとしても、当然ながら時間は戻りません。
「あの時、ああしていれば。」とか、「この時、こうしていれば。」と後悔しても何も始まりません。
それどころか、そんなことを考えている今の時間さえもどんどん過ぎ去っていきます。
私も若い頃は、人生の時間がとても長く感じていました。
若ければ若いほど、そう、とても長く感じるものです。でも、実はそうではありません。
今日、これから何らかの事故などにより命が潰えるかもしれません。
あるいは、平穏無事に長いこと、ここで学び、生を終えるかもしれません。
自分が設定してきた時間は、自分の中だけが知っています。
いつ、命の灯が消えるかなんて表の存在である私達には、わからないようになっているのです。
それは、命の期限に氣をとめ、やるべきことができなくなっては本末転倒だからです。
以前も書きましたが、ここへは【学ぶ】ため【自分が決めた何かを成し遂げるため】に生まれてきています。
それを全うするために生まれてくる前の記憶は封印されていますが、今までに蓄積された記憶は、すべて私達の中にあるのです。
そして、これからの体験も記憶として蓄積されていきます。
ですから、日々を今、この瞬間を大事に大切に生きていかなければならないし、その際を楽しまなくちゃもったいないんです。
人は一人では無力であり、存在の意味を確かめることはとても難しいです。
しかし、誰かと出会い、繋がることで力も存在意義もはっきりと明確になってきます。
人と人が繋がれば、大きな力となり、どんなことも可能にしていくことができます。
その前提には、自分を大事にし相手にも尊敬の念を持つことが重要になってきますが。
今、この瞬間を大切に生きるということは、「今、ここで終わったとしても悔いのないように生きる」ことなんです。
禅語でいうと「而今」です。
『而今』という禅語は、命の真実は『今』にしかないことを説いた言葉です。
私たちは『今』この瞬間にしか生きることはできません。
昨日の自分はすでに死んでいるのと同じ。明日生きているという保証もないのです。
であるからこそ、『今』という時期を大切に生きることが大事なのです。
建功寺 枡野俊明住職 著書『おだやかに、シンプルに生きる』より抜粋
どうぞ、私のように「あの時、なぜ勇気を出して連絡を取らなかったのか。」と、悔いることがありませんよう、今、この瞬間を大事に大切に生きていきましょう。
毎日をこれが最後かもしれないと丁寧に重ねていきたいものですね。
このブログでは、毎回、良いお話を聞いたり、感動した本などから、「今を生きる私達に何らかのヒントになりそうだなぁ。」と感じたお話をあなたと共有したくて、ちょこちょこ書いております。
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